2016.7.19
2016年度、マチノコトは「Neighbors Next U26 Project」のメディアパートナーを務めています。マチノコトでも「Neighbors Next U26 Project」の活動の様子をお伝えしていきます。原文はこちらから。
26歳以下の世代が、マンションにおいて将来の日本の社会課題を解決するソリューションとなるコミュニティをつくりだしていくことを目的に、三井不動産レジデンシャルのCSV活動の一環として昨年度スタートした「U26」プロジェクト。
5月、今年度の活動がついに始動しました。キックオフイベントに続き、U school vol.2は西国分寺で「クルミドコーヒー」を経営する影山知明さんをゲストにお迎えし、人と街を元気づけるカフェを経営していくための”人・金・モノ”の考え方についてお話を伺いました。
「クルミドコーヒー」は、西国分寺に店舗を構えるカフェ。こだわりをもって運営され、人々に愛されるお店として評判です。出版社「クルミド出版」や地域通貨「ぶんじ」など、様々な活動の拠点ともなっているカフェは、どのように生まれ、どう運営されているのでしょうか。
影山さん:クルミドコーヒーが入っている建物「マージュ西国分寺」は、西国分寺駅近くにある地上5階建ての集合住宅です。母親の実家だった木造の一軒家が、築50年で空き家になってしまい、なんとか建て替えなくてはいけない、となったのがそもそものきっかけです。
現在は1階がカフェと事務所スペース、2階から上が住宅になっています。住むスペースと事務所、そしてお店の全てがこの建物のなかに入っている、というつくりです。住宅の部分はシェアハウスとなっています。
各部屋に水まわりの設備を入れてプライバシーを確保しながら、ダイニングスペースやガーデニングスペースといった共用部も持つ、というスタイルのシェアハウスです。多世代の人が住んでくださっていて、下は20代から上は80代近い方まで、家族世帯が入居してくださることもあります。
そのダイニングスペースなどを、そこに暮らす人が使う共用部として、「プライベートコモンスペース」と呼んでいます。それらに対し、コミュニティが集合住宅のなかに閉じてしまわぬようにということでつくったのが、「パブリックコモンスペース」。
同じ「コモンスペース」ですが、プライベートを重視した、どちらかといえば内側に閉じるタイプの共用部(「プライベートコモンスペース」)と、街に開いたタイプの共用部(「パブリックコモンスペース」)。
この両方をひとつの建物のなかに持つことで、その中の人と街に暮らす人とが関わる拠点をつくっていけるんじゃないか。それをどういう場所にしていこうか、ということで考えて辿り着いたのが、カフェだったんです。
僕たちが考えるカフェは、昔でいうところの縁側のようなイメージです。住む人にとっての空間の一部でもあるし、外からふらっとやってくる人が過ごす場所でもある。内側でもあり外側でもある、中間領域としての共用部ですね。それを現代的に再現するならば、カフェという形が良いのではないかと考えました。
老若男女どんな方でも、かつ、一日中時間帯を選ばずにふらっと立ち寄れればということで、それを受け止められる飲食業態、空間の作り方という点で言うと、カフェに勝るものはないのではないかと思うのです。
影山さん:僕らは自己紹介をするときに、「西国分寺の駅前で、クルミをテーマにしたこどもたちのためのカフェをやっています」という言い方をしています。クルミをテーマにしたのは、僕の好物っていうこともあるんですけど、「くるみ」という音を含む「これから来る未来」を象徴するシンボルとしてちょうどいいなと思ったことがその理由です。
クルミは種なので、土に撒いたら芽が出ます。そのなかに未来に向けての色々な可能性が詰まっているという意味でも、お店のシンボルに良いのではないかと考えました。
「こどもたちのためのカフェ」というのは、文字通りこどもたちのため、とういうこともありますが、我々大人の内側にも眠っている子ども心のようなものを、上手く刺激出来るようなお店にしたいという考えもあります。
無邪気で、その人自身に立ち返ったような素の姿で人と関わることで、無理のない自分でいられたり、何か面白い取り組みが始まっていったりするのではないかという思いも含んでいます。
店内は、本の中、もしくは森の中に入り込んだような、日常にありながらも、ふと非日常観を味わえるような良さを目指してつくりました。普段の暮らしのなかにありながらも、ふっと息をつけたり、新鮮な驚きがあったり、そうした非日常の世界観がカフェの良さだと思っています。
お店の売上ですが、2013年までのあいだ、年率20%ぐらいで成長してくることができました。その後も10%ぐらいは成長できています。
このようなカフェをやっていますと、「儲からない」「経済性はまた別なのでは」と捉えられがちなのですが、きれいごとも突き詰めてやっていると、ちゃんと金になるということを証明したいと思ってやってもいます。
一番性質(たち)が悪いのは、きれいごとを中途半端に言ったりやったりするということ。きれいごとにも気持ちを込めて、真っ当にやっていけば、それなりに売上や利益もついてきて、経済性もちゃんと成り立つようになる。やる前からそう信じていました。
ここまでの8年間、100%ということではなくともそれを達成してこれています。で、小さな範囲ではそれを証明して来こられたのかなと思っています。
影山さん:もともと自分の実家があったところに集合住宅を建て替え、それが街とも接続していくような拠点になったらいいなということでカフェを作った。でも最初からカフェをやりたかったのかと言えばそういうことでもなくて、コーヒーが昔から好きだったというわけでもない。
ただ8年経って気がついてみると、今は自分はカフェをやるために生まれてきたとさえ思えるくらい、自分の天職だと思ってやっています。そう思えるようになったきっかけの一つは、一冊の本との出会いでした。
10年ほど前にカフェ研究家である飯田美樹さんが書かれた『caféから時代は創られる』という本があります。この本がテーマにしているのは100年前くらいのパリのカフェです。そのころは絵を描く人や文豪、政治家や哲学者などがカフェに集まって、お互い切磋琢磨しあい、それをきっかけに時代がつくられていったと語られますよね。
映画でいうと『ミッドナイト・イン・パリ』。書籍『caféから時代は創られる』もまさにそんな様子を描いているんですが、そういう話を聞くにつけ僕らはこんな風に考えます。「なんで100年前のパリのカフェには、それだけ偉大な人たちが集っていたんだろうか?」と。
この飯田さんの本が教えてくれたのは、それは因果関係の捉え方が逆なんじゃないかという問題提起です。つまり、偉大な人たちがカフェに集っていたわけではなく、そこにカフェがあったから、集っていた人たちが、後に名前を残すような偉大な人物に育っていったとは言えないかと。
例えば、トキワ荘も、手塚治虫にはじまり、藤子不二雄や赤塚不二夫、石ノ森章太郎…、あれだけの人がなんであんなにトキワ荘に集まっていたのかって僕らは思いがちですが、それは順番が逆で、トキワ荘があったからこそ、そこに集っていた人たちが、僕らがいまだに名前を知っているような偉大な漫画家に育っていったんだっていう考え方ができはしないか。
海を越えればシリコンバレーというところもあります。ひとつの場や空間が、そこにいる人たちをぐっと成長させたり、偉大な人物や時代をつくっていくきっかけとなったりしている。それが地理的にも時間的にもあるところに集中して表れるというのは、歴史を通じて証明されているひとつの事象だと思います。
そう考えると、自分たちがやっている仕事も、大変意義深いことのように思えてくるわけです。ぼくらは日々、50年後のピカソと出会っているのかもしれない、などと考えるのはこちらの自由なわけです。飲食業態をやっているという側面に加えて、人を育てたり、時代をつくっていくような場づくりを仕事にしているんだっていう自覚も自分のなかにあるわけです。
影山さん:別の観点で場づくりというものを考えた時に、カフェが担える役割としてお話ししたいのは、カフェには「目的なく人が集まれる」という特徴があること。意外と重要な点だと思っています。
はっきりとした問題意識を持っていて、自分の興味を言語化できている人は、行ける場所がたくさんある。なにかしらのテーマの集まりなど、自分の興味分野に合わせて行き先を選べる。
ところが世の中のほとんどの人は、自分がそもそも何に興味があるのか、何を自分の人生をかけてやっていきたいのかなんて分からないっていう場合が多い。そういう人は、どこへ行くべきかの判断が難しいわけです。
でも、誰かれとのなにげない対話を通じて、「そういえば自分、昔そういうことに興味があったよな」とった風に、少しずつ内側に眠っている自分の意識が、ことばとして立ち上がってくるという経験をすることもあるわけです。そういう出会いや対話をできる場所が街なかにあるということは、とても大事だと思っています。
本の中に迷い込んだような、非日常の世界を表現した店内のイラスト
しかし、そういう視点で街を見渡していくと、無目的な来訪を受け止めてくれる空間と場所って、意外とあるようでない。だいたいの場所は目的的になっている。例えば、市役所には住民票を取りにはいくけど、住民票を手に入れたら帰るわけじゃないですか。映画館も美容院もそうですよね。
昔だったら、神社や、銭湯、赤提灯などにふらっと行くと誰かしらいて、話をしているうちにそこから何かが始まったりする。今はそういう場所がどんどん失われていっている。
今の時代、空きスペースを有効活用しようとなったときに、どうしても その空間の用途と見込める成果について説明出来ないといけない。主体が企業でも行政でも同様です。
説明する責任があることを「アカウンタビリティ」と言いますね。僕はこの世の中をおかしくしているいくつかの単語があると思っていて、そのひとつがこの「アカウンタビリティ」です。
「どういうことが成果として起こります」ということを事前に説明が必要だと言われたって、実際はそんなわからないことが多いわけです。特に、こういうカフェみたいな開かれた場をやろうとするケースにおいては。
「何が起こるかわからないんです」じゃ説明が通らないとなると、より目的をはっきり持たせて、「こういう人たちが集まって、こういう活動をして、こういう成果を生み出す場をつくります」と言わざるを得なくなってくる。
それが世の中の空間をつまらなくしていると僕は思っています。もっと開かれた、何が起こるか分からないような場、ただ色んな人が集まれる場を実現できたら、思いがけないことがそこから始まるんじゃないかということを自分なりに証明したいと思いました 。
これが、クルミドコーヒーにかけている自分なりの思いのひとつです。カフェというのはコーヒー代を払わなくてはいけないわけですが、ほとんどの人はコーヒーを飲みにきているというのではないわけです。なんとなくふらっと来る。そして誰かに会う。そこから何かが生まれる。そういうことが日々起こっていて、それがカフェという空間が持っている魅力だと思うのです。
影山さん:コミュニティとは何かということについて、自分なりの捉え方や定義をお伝えしておこうと思います。コミュニティを、このような座標軸で、「自由⇔不自由」、「共生⇔孤立」という二軸で捉えてみましょう。
例えば、昔ながらのコミュニティというのは、この四象限でいうと左上の「不自由な共生関係」にあてはまるのではないでしょうか。助け合う関係の良さがある一方で、多くの場合、ひとつの性格として「不自由さ」を持っている。
その息苦しさや窮屈さが嫌で、多くの人たちは都会に出てきたのだと思います。この図で言うと左上から右下への移行。自分で自分のことを決められる自由を手に入れます。だけれど孤立してしまうという面もある。
では「自由で孤立」なところに立っている状態から、次にどちらに向かうのかと言えば、右上(「自由な共生関係」)の象限へ、ということを考えられないかと思うのです。
お互いの自由や違い、プライバシーなどに敬意を払った上で、関わる可能性を追求していく。自由の前提に立った共生関係はあり得る、というのは私の仮説であり、ライフワークとして取り組んでいるテーマでもあります。
人を受け止め、時代をつくるきっかけにということでつくられるカフェをよく「サードプレイス」と言いますね。「あなたにとってサードプレイスとはどういう場所ですか」を問う某アンケートによると、「一人になれる場所」という回答が多かったそうです。座標軸の「孤立」という表現は何となく後ろ向きのニュアンスですが、自分一人の時間を確保出来ているというのは、いまの世の中においてとても大事な機会だと思っています。
もともと「サードプレイス」というのは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグ氏が使い始めた言葉ですが、彼が提案していたサードプレイスというのは、「自由で孤独」な側面も持ちながら、「自由な共生関係」という側面も持っていると思います。自由を保ちつつ関わるなかからお互いが自分に気づいたり、新しい物事がはじまっていくような場所。
それを実現していく際に、コミュニティをつくるコツは何かという風に考えると、「コミュニティをつくろうとしないこと」なのではないかと思うのです。コミュニティをつくろうよ、という風にすると、コミュニティをつくることが目的になる。
すると「私」や「あなた」がそのための手段になってしまう。全ての出発に「私」がいるということを忘れずに、それぞれの「私」が掛け合わさっていくなかでコミュニティは出来上がると思うんです。つまり、コミュニティとは「私」と「あなた」の関わりで形成されるわけですが、その個々の関係を築くにあたってもシンプルなコツがあると考えます。
それが、「利用しあう関係」ではなく「支援しあう関係」を築いていくということ。英語で言えば「Take」、つまり実現したい目的のために誰かを利用するという関係ではなく、目の前にいる人に向けて、自分は何を「Give」できるだろうかと考える。これを世の中に連続して再現していけたら、結構すごいことが起こるんじゃないのかというのが、自分がやりながら感じていることです。
影山さん:コミュニティを「交換の集合体」と定義してみるとどうでしょう。コミュニティを「街」「社会」と言い換えてもいいんですけど、その実態をぐーっと顕微鏡でクローズアップして見ていくと、「私」と「あなた」のかかわり合いの集合体として出来上がっているとも捉えられます。その関わり合いを「交換」と呼んでみましょう。
経済的な取引であっても、こんにちは、と声をかけあうことでも、ひとつの「交換」と捉えての表現です。私とあなたの交換、ここの矢印の向かう向きが「利用する」から「支援する」へと変わっていくと、それが掛け合わさっていった先のコミュニティの形も当然変わっていくというのが、僕なりの捉え方です。
自分が何かをGiveするということは、自分の利益を犠牲にすることとは思っていません。「情けは人のためならず」と言いますが、情けをかけるということはその人のためになるということだけではなく、実はまわりまわって自分のためにもなるという面もある。自分が何か利得を得たいと思うならば、利他的にふるまうということは、実はすごく合理的でさえある。
それを実際にお店というフィールドで、三つの円を描いて考えてみましょう。まず、「私」と「あなた」の交換が発生するわかりやすいフィールドというのは、お店とお客さんの関わりですね。その内側に、僕の場合、私とスタッフという関係がある。お店の仲間たち同士の交換もある。更に広げていくと、お店と地域、隣のお店とか、地域に住む人たちとの繋がりもある。
カフェを軸にしながら、この3つの円で、それぞれで交換の原則を変えていくことを考えてみます。例えば真ん中のお店とお客さんの関係で、利用し合うのではなく、支援しあうということを実現していく。僕らはお店を訪ねてくれたお客さんに、いい時間を過ごしていただくために、何が出来るだろうか、出来るだけいい贈りものをしようと考えていく。
そして美味しいコーヒーを淹れて出して、いい時間を過ごしてもらうということができると、お客さんのなかに消費者的ではないマインドが芽生える。いい贈り物をもらってしまったので、もらったもの以上のものを返したいという気持ちになる。
これは「健全な負債感」と言ったりしますが、「健全な負債感」を持つと、何とか解消したいと多くの人は思うから、またお店にきてくれる。お店のことを口コミでまわりに伝えてくれるとか、大事な誰かと一緒に来てくれるといったことで返してくれることもある。
あるいはそうして僕らに返してくれなくても、帰る道すがら、落ちているゴミを拾う気になるとか、電車で人に席を譲れたりする。恩を感じたならば、恩を返すことも出来るし、次に送ることもできる。こういうのを「恩送り」「ペイフォワード」と言ったりしますね。そういう原則に基づいてお店をやっていったらいいのではないかと思うのです。
お客さんというのはお店にとっての手段ではなく目的です。その人にいい時間を過ごしてもらうことがぼくらのお店をやっている理由。利用しあう関係から支援しあう関係に変えていくというのが、お店とお客さんとの関係の良いデザインなわけです。
影山さん:外との関係がそうであるように、組織の中の関係も切り替えていけると考えています。スタッフとの関係も、利用しあうのではなくて、支援しあう関係に変えたい。ともすると、外に向けてはきれいごと、かっこいいことを言っておきながら、スタッフをそのための手段としか考えていないというケースが、ままあるように思いますから。
そう思うようになったときからある質問をするようになりました。「あなたの人生は、クルミドコーヒーでの仕事より先にある。あなたは、このクルミドコーヒーという場や機会をいかして、どういうことを表現してみたい?」と。
もちろん誰しもすぐに答えられるわけではありません。でもそんな投げかけを2、3年続けていくと、それぞれの中に眠っている興味関心などが頭をもたげてくることがあるわけです。
それを支援していくと、結果的に、お店の中に色々な面白い取り組みが芽生えていって、それがお店自体をも成長させてくれています。利他的に振る舞うことが、結果的には自分たちの利得にも繋がるということが、スタッフとの関係でも起こる。
そのようにお客さん、スタッフとの関係に加え、地域との関係をも「利用しあうから支援しあう」に変えていきます。僕らは「地域通貨」を使っていて、例えば冬の季節に出しているイチゴのケーキですが、これをつくってくれているのが中村農園さんという地元の農家さん。そこから仕入れるんですが、こんな循環が起こっています。
国分寺の中村農園さんが苺を作ります。中村さんのところには援農ボランティアといって、定植、はじめに植える時や草を抜いたり、収穫したり、それらを一貫してサポートしてくれているボランティアさんがいらっしゃいます。そうやってボランティアできてくださったひとに、苺の現物を渡したりということをこれまでもされていたんですけど、あわせて「ぶんじ」という地域通貨を渡すようになった。
それを渡されたボランティアの人はそれを持ってクルミドコーヒーに来るとお店で使うことができるので、自分も一緒になって育てた苺を使ったケーキを地域通貨を使って食べることができる。それを受け取った僕らは、中村さんから苺を仕入れる時にその「ぶんじ」を使うことができる。ということで、「ぶんじ」がぐるぐると回っているわけです。「ぶんじ」は「ありがとう」を表現する道具です。
「ぶんじ」をみんなで使いだすと、自分がどんな人の仕事を受け取っているかを想像するようになっていきます。そして感謝の気持ちを表明することに、だんだんみんな意識的になっていく。
すると、「受け手が送り手を育てる」ことが起こります。不思議なことに、例えば売上のことしか考えられなくなってしまっていたラーメン屋さんがあったとして、ぶんじの受け入れを始めようと思うと、こう考えるようになります。
「どうやったらお客さんが『ありがとう』と思ってくれるだろう」と。どうやったらお客さんがよろこんでくれるかを考えてラーメンを作るという原点を思い出す。これは実は劇的な、働く動機の転換です。お金のために働いていたものが、誰かをよろこばせるために働くようになる。
いい街というのは、立派な施設やプログラム、おしゃれなお店がたくさんあるっていうことじゃない。まちに、誰かが誰かを思う仕事があふれているとすると、そんないい街ないんじゃないのと思う。そんなまちづくりが「ぶんじ」をきっかけに始まっています。
人とかかわり合いながらも、お互いを利用しあうのではなく、お互いをリスペクトし、互いに感謝の気持ちを表明し、むしろ支援しあうことで、いい関係が築かれていく。そこからは思いがけない活動が始まってきたりして、そうして街が樹形に育っていく。
これまでのまちづくりって都市計画的な考えをしてきて、設計図を先に書いてそのために必要な資源を揃えていくという方法だった。ですがクルミドコーヒーみたいな運営をしていると、目の前のお客さんを支援しようとすることで、気がついたらそのお客さんと思いがけないことを始めていたりする。
スタッフを支援したいと思っていると、事業計画にはない思いがけないことが始まったりする。そこにその人がいたから、そこにその出会いがあったからという、必然性ある取り組みがお店に満ちていく。
植物ってはじめからどういう木の形になるか決まっていないわけです。その時に出会った土や雨や風邪や光との出会いのなかから、内発的なエネルギーと外発的なエネルギーを交換しながら樹形をなしていくんだとすると、お店や街というものもそうなのではないか。いのちというもののエネルギーに自然な形でことを進めることが、これからの街の作り方なのではないかと思うのです。
Q1:もしかしたらコミュニティを築くための空間がなくとも影山さんみたいな人がひとり街にいれば、街は発展していくんじゃないか、とすら感じます。そうしたプレイヤーが増えるべきだと思いますか? それとも建築家のような中間的なプレイヤー、前線のプレイヤーを支援するような立ち位置の人もいたほうが良いと思いますか?
A1:おっしゃる通りで、究極的には人が場になると思っています。空間的な力を借りなくても、支援的な力量を持つ人が居さえすれば、その人のまわりにそういう場ができていく。実際、そういう人っていますよね。支援的な技法を自然に体現されているんじゃないかと思います。ただ、空間がそれを助けてくれる面もあるとは思います。
不思議なことに、人間のふるまいは空間の影響を多大に受けていて、例えば京都の立派なお寺の、玉砂利が整然と敷かれているようなところにいくと、背筋が伸びる感じがしますよね。クルミドコーヒーも、壁や床を自分たちでつくっているんですが、人ってやはりそこに厚みがあるかというのは感覚的にわかるんだと思う。
人が嘘をつかずに丁寧に仕事をした空間や建築物は、人の良い面を引き出す力があるので、そこは建築家の大事な仕事じゃないかと思います。新しいものをつくっていく時代が終わっているとすると、そういう場をつくることこそ建築家に求められてきているのではないでしょうか。
Q2:街は樹形に育つという話に共感しました。ただ、以前建築を学んでいましたが、街のあらゆる施設などが独立してしまっているなかで、予想外のことを起こすためには、計画的な積み上げを重ねていることが大事なのではないかと思う部分もあります。都市計画という立場から見ると、精度の問題なのではないかとも感じます。積み上げていくところを、精度を高めてトップダウン的な視点でみれば良いのではとも思うのですが、どうお考えになりますか?
A2:街は樹形に育つといいながら、フェーズによるところもあると思います。50年前だったらこういうことはきっと言っていません。ある程度、鳥の目と虫の目とが必要で、俯瞰的に見て全体最適を実現する目線も必要だと思います。まちづくり、都市づくりという目線ではそういう役割があったはずで、道路をどこに通し、緑地をどう確保するか、などを鳥の目で見て経営資源の分配をしていくことも必要で、それはそれまでの方法論としてワークしていたのだと思います。
ただ、それはもう一通り終わったと思うんです。これからは、そういった俯瞰的に何かをつくっても、そこに魂が入らない。この問題に向き合うべきです。そこに暮らす人やそこで日々生まれているいろいろな状況が持っている、もう少し内発的なエネルギーにどう水をやれるか、ということになってきているのではないでしょうか。
ひとつ予言するならば、都市計画を学ぶのはだいたい工学部ですよね。これが変わらないとだめだと思います。構築物をつくることとまちづくりは変わってきているから、構築物をつくる方法論でまちをつくっていたら時代に合わなくなる。
工学って「エンジニアリング」ですよね。基本的に「エンジニアリング」には設計図があって、都市計画と事業計画があるわけですが、ものごとを「エンジニアリング」的につくるというのは設計図のために必要な素材を集めるというやり方になります。
それと対極的な「ブリコラージュ」という言葉があって。もともとはフランス語なんですが、あるものに目を向けて、あるものの組み合わせから面白いものをつくりだしていく知恵や技術のことを言います。
例えるなら料理なんかがわかりやすいと思うのですが、レシピを先に決めて、そのために必要な食材を買いにいくというのは「エンジニアリング」。そうではなく、冷蔵庫を開けて、そのときそこにたまたま入っている食材を見渡して、何を組み合わせて料理するかを発想するのが「ブリコラージュ」。まちでも「ブリコラージュ」的なことができたら良いなと思いますね。
クルミドコーヒーの経営を通じて体現していらっしゃる、人の関係性の気づき方やお金の捉え方、まちづくりの考え方、そしてまさに「これから来る未来(くるみ、にかけて)」についてお話くださった影山さん。
U26には建築や社会学を学んでいたり、実際にマンションに関わる職に就いているメンバーがいますが、会の終盤には「場」を通じた街の未来への希望に感激したり、励まされたという声が多く聞こえてきました。
今回の学びは、U26プロジェクトのコミュニティカフェにおいても非常に大きな要素になることでしょう。一体どんなコミュニティカフェが実現するのでしょうか。乞うご期待ください。
こどものための、大人の物語 – KURUMED COFFEE
マチノコトに過去に掲載された「Neighbors Next U26 Project」の記事はコチラ。
コメント