2016.7.7
「生きたい場所で、生きる人の旗印に」
マチノコトでも何度かご紹介している「京都移住計画」。ここからはじまり、福岡、信州、新潟などへと動きが広がって、去年「みんなの移住計画」が立ち上がりました。
移住計画が大切にしてるのは、地域同士が協働していきながら、お互いの地域をも応援していけるような関係性をつくろうというもの。そのための旗印として「〇〇移住計画」が各地で生まれています。
生きたい場所は、人の性質、趣味嗜好、カタチにしたい仕事などによっても異なります。人の数だけ、地域の選択肢はあるはずなのですが、まだまだその選択肢を「知る」という段階で留まってる人も多いはず…。その「知る」一つとして、暮らしの選択肢である秋田を特集しています。
「Aターン」「北秋田編」をお送りしましたが、今回から鹿角(かづの)編に入ります。鹿角市に移住された田渕博之さんをご紹介します。その前に、まずは鹿角市という地域についてのご説明から。
秋田においては最北東部、北東北においては3県(秋田・青森・岩手)のほぼ中央に位置します。市内には東北自動車道の「鹿角八幡平」と「十和田」の2つのインターチェンジが通っており、盛岡市・青森市・八戸市など主要都市まで1時間圏内の距離。交通面における、県と県をつなぐジャンクション機能を持ちます。
歴史的には、明治4年に秋田県に編入され、昭和47年に花輪町、十和田町、尾去沢町、八幡平村の4つの町村が合併したのちに鹿角市になりました。
十和田湖や八幡平国立公園などの自然に囲まれ、療養のできる温泉郷も点在、国体も行われるほどの花輪スキー場もあります。きりたんぽの発祥地であり、鹿角ホルモンなどの食文化も豊か。花輪ばやしなどの伝統行事も継承される地域です。
そんな鹿角市に、Iターンされた田渕さん(りんご農家)の移住前の経緯や、移住後の変化、 地域との関わりについてお話を聞いてきました。
「東京に疲れてしまったのはあります。そりゃ、給料はいいですよ。ただ将来はそこそこ見えちゃいました。いいとこ部長クラスでってなったとき『それになりたいのか?』と考えると、うーん……という感じ。週1の休みも寝て終わり。身体がおかしくなるような仕事の仕方にも違和感がありました」
田渕さんは、奈良県奈良市出身。大阪で働きはじめたコンピュータ関連会社の転勤で東京へ。営業職で休みもまともに取れないような日々を過ごし、ついに体調を壊し、ドクターストップがかかります。その療養先として、後生掛温泉に足を運んだのが鹿角との出会いでした。湯治で何度か鹿角に通うなかで、地元の人と親交を深め、食文化に触れることに。なかでも、「かづの精果園」の児玉精太郎さんとの出会いは大きかったそうです。
元々りんご嫌いだった田渕さんですが、児玉さんの作るりんごを食べて、その味に驚きます。児玉さんとしては、ちょうど同園で作るブルーベリーの販路開拓をしていきたいと考えており、その手助けとして田渕さんに声がかかります。児玉さんの人柄に惚れた部分はもちろんのこと、そういった仕事をきっかけに辞職を決断し、2014年4月に鹿角へIターンをすることに。
実は、沖縄移住なども頭の片隅にはあったそうですが、結局は至りませんでした。田渕さんは「人との出会いがないと移住にはならない」とも「自分好みの味のりんごじゃなかったらこうはなっていなかった」とも言います。発端は都会での働き方へ疑問からはじまりましたが、児玉さんをはじめとした鹿角住民との出会いがまずあり、次に「食」の発見があり、そして、仕事の口を見つけたことが移住への決定打となりました。
鹿角で暮してやがて4年が過ぎますが、移住後には体調面での喜ばしい変化が。「アレルギー体質など、体調が大きく改善した。皮膚病も湯治で1ヶ月ほどで直った」そうです。それもこれも、いい空気といい水といい土のおかげで、お米や果樹もおいしく、温泉にいつでも行けるという環境があってこそだと言います。また、仕事の業種が変わったこともあり、自然に対する見方も変わりました。
「果実の成り具合に合わせて生活するわけですよね。お日様が出て、沈むというリズムで仕事をするので。天気予報の見方が全然変わって、気温がこの後どうなるとか、気圧配置だからこうなっていくとか、暴風がくる可能性があれば早めにりんごをもがにゃならんとかなってきますし。天気と一緒に生きていく、という感覚です」
東北ならではの冬の厳しさはあります。鹿角は気温差がすごく、最大で18度の差が1日にあるのだとか。そういった気候は、暮らす人には決してやさしいとは言えませんが、果樹が育つにはよい環境なのだと田渕さんは教えてくれます。さらには、こういった自然環境のなかで暮らし働くなかで気付いたことも。
「農家って究極のグルメだなぁと。『どこからつくるか、じゃあ、土から』というように自分で一からつくることができるんです」
美味しさを突きつめると、農家の仕事はやれることはキリがないと話す田渕さん。自然と共存しながら、そして、師である児玉さんからの技術を学びながら、鹿角における「食」の可能性を広げています。
「農家はギリギリでやっている」。その原因となる経営面をどのように解決していくかは、田渕さんの問題意識だそうです。「全国賃金レベルまであげる。ちゃんと報酬を出せるように、外からきた人もやれるように」と続けます。
そのために、あくまで新たに起業するのではなく、児玉さんが代々引き継ぎ、育ててきたかづの精果園を引き継ぐとのこと。そういった血縁じゃない継承のかたちを模索します。これは「やらねばいけないこと」で、個人の課題であり、地域の課題であり、県の課題でもあると田渕さんは話してくれました。さらには、身体を壊してしまった自身がそうであったように、都会での働き方に対する疑問を持った人たちに対しての次のような想いも。
「農業に限らずに、生活のひとつの選択肢として鹿角の暮らしを薦めれればと。そのためのロールモデルになるため、自分自身が成功しなくちゃ。次、真似したいというかたちをつくりたいです。それが地域の人への恩返しだと思ってます」
どんな移住者が増えるといいのでしょうか。また、新しくこの地に足を踏み入れる人たちはどのように地域に入っていけるといいのでしょうか。どのように外からきたときの経験を活かすことができるのか、気になっている人は多いはずです。田渕さんは、こう考えます。
「都会から移住してきて農業やっている人にメディア系、金融系などいますが、前職のノウハウを100%切り捨ててる人はいないです。無意識でも使っていくことになりますし、実際にはそういう人が集るとおもしろいんです。
ただそこに居ないといけないのは、生粋の鹿角人。彼らが知っている土地の特性とか、歴史をないがしろにしてはもったいない。そこを大切にしながら人と違う人がどんどん混ざればいいと思います。人との出会いって、ほんと化学反応みたいで、違うものと違うものが混ざって、おもしろいものができればと」
ご自身の立場を意識したうえで、鹿角で提供できるものを考え、この地域色を守っていきたい。そんな想いを言葉から感じました。「地域に『根ざすこと』と『籠もる』ことは違う。ここだけで完結するということはない」という考えを持つからこそ、移住者が増えていほしいと田渕さんは願います。
都会であっても田舎であっても、仕事そのものというよりは、そこでの働き方への疑問を感じている人は多いはずです。その働き方が変わることによって、暮らしのリズムは変わり、もちろん時間の使い方も変わってきます。その時間を自分だけでなく、家族や地域にいる人たちと過ごす時間になることに、暮らしの豊かさを追う選択肢もあってもよいのかもしれません。
そのときに、自分の働き方をを整えるための選択肢が、起業や個人事業主以外でもあるといいかもしれません。鹿角という地域においては、りんご農家という仕事を通して血縁じゃない継承のかたちを追う田渕さんがいます。何十年も続いてきた資産を守りつつ、外の人に開いていくことの意味は大きいです。
日本の歴史を振り返れば、江戸時代には丁稚奉公制度による事業継承はありましたが、その大前提には、事業を成長させ、そこに必要な人材を明確化して、そういった人材へアプローチしていくための「現代版の丁稚奉公制度」とも言えるシカケづくりが必要です。そうした取り組みは、地域の課題だということに気づかされます。一企業において、一地域において、まだまだ考える余地はあるのではないでしょうか。
また「まちづくり」「地域との関わり」と聞くと、そういう団体や仕事についてないと、あるいは、自分の余暇を使ってやるもの、というイメージは強いかもしれません。ただ田渕さんがそうであるように、自分の事業を育てることが地域との関わりを強くするとう選択肢もあります。地方においては、良くも悪くも世間が狭いぶん、距離が近くなりやすいという傾向はあるかもしれませんね。そのうえで、みなさんはどんな地域との関わり方を考えますか?
鹿角の地域と人については、こちらの映像でもご覧いただけます。もし鹿角という地域と、この地で暮らす人が気になった方は、ぜひ現地に足を運んでみてください。インターネットが普及した現代だからこそ余計に、百聞は一見に如かず、です。もし移住を検討されているなら冬の時期に行ってみると、より地域性や暮らしのイメージを掴みやすいですよ。
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